生きる918

生きるってなんだろう?

明仁天皇の最初の沖縄訪問 (3/4) ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」

昭和50年(1975年)7月の皇太子殿下(明仁天皇)の最初の沖縄訪問と「歌声の響」について4回に分けて紹介しています。今回はその第3回です。

【目次】
第1回〕琉歌「歌声の響」
第2回〕沖縄民謡「だんじよかれよし」
第3回ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」
第4回沖縄戦慰霊碑「ひめゆりの塔

国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」

皇太子ご夫妻(現在の明仁天皇美智子皇后)が訪問された沖縄愛楽園は沖縄県名護市に位置する国立ハンセン病療養所です。昭和13年(1938年)に開園した沖縄県立国頭(くにがみ)愛楽園が前身です。

愛楽園のある名護市は南東部に米軍基地『キャンプ・シュワブ』と辺野古岬を抱えています。辺野古沖の基地建設問題で沖縄も日本も揺れていて盛んに報道されているので、名護市のことをよくご存知の方も多いと思います。愛楽園は名護市北部の羽地内海(はねじないかい)に浮かぶ屋我地島(やがじしま)の北端に位置しています。屋我地島は沖縄本島と東西二本の橋で結ばれています。

愛楽園が設立された土地は、キリスト教伝道者の青木恵哉(けいさい)氏がハンセン病患者への過酷な差別に苦しみながらも苦闘の末に手に入れた安住の地だそうです。愛楽園発祥の地には青木恵哉氏の頌徳(しょうとく)碑と銅像が建立されているそうです。

愛楽園は、青木恵哉氏が手に入れた土地を基にして昭和13年(1938年)に沖縄県立国頭(くにがみ)愛楽園として開園し、昭和16年(1941年)に国に移管されました。戦後は昭和21年(1946年)に米軍民政府、昭和27年(1952年)に琉球政府の所管となり、昭和47年(1972年)の本土復帰の際に国立療養所沖縄愛楽園となりました。

さて、以下では下記の順に愛楽園について紹介していきます。

戦時中の愛楽園

戦時中の愛楽園についての記事を読むと、当時の早田晧(はやた ひろし)園長の名前がよく登場します。早田晧園長は昭和19年(1944年)3月に着任、昭和21年(1946年)9月に離任したハンセン病を専門とする医師です。早田晧園長の着任は沖縄防衛のために第32軍が編成されたのと同時期ですので、日本軍の動きと連動した人事だったのかもしれません。

早田晧園長の着任と時を同じくして日本軍による沖縄のハンセン病患者の強制収容が始まりました。その結果、愛楽園には定員450名の倍以上の913名のハンセン病が収容されたそうです。早田晧園長は入所者の中で軽症な人たちに防空壕(通称、早田壕)を掘らせました。防空壕掘削はハンセン病患者には過酷な労働環境だったそうで、多くの入所者が重症になったり死に至ったりしたそうです。また、愛楽園は病院なのに敢えて赤十字のマークを掲げていませんでした。そのため米軍から日本軍の兵舎と間違われて、昭和19年(1944年)10月10日の「十・十空襲」では7時間余りに渡って激しい空襲を受け壊滅状態になったそうです。しかし防空壕のおかげで空襲で直接亡くなった方はほとんどいなかったそうです。

歴史に『もしも』は禁句かもしれませんが、それでも『もしも』赤十字のマークを掲げて病院であることを米軍に示していれば、空襲の心配はなかったかもしれません。そうなれば、防空壕掘削のための過酷な労働は不要だったかもしれませんし、空襲により食料庫が焼かれたり医療体制が破壊されたり衛生状態が悪化したりすることもなかったかもしれません。そうすれば、戦時中の死亡者数も重症者数もずっと少なくて済んだかもしれません。その『もしも』が起きなかったのは、もしかしたら日本軍のハンセン病政策と関係があったのかもしれません。そんなことを思いました。

以下、戦時中の愛楽園について様々な視点から書かれた記事です。沖縄のハンセン病患者、愛楽園の入所者が置かれた過酷な状況が伝わってまいります。

○屋我地島のドン・キホーテ (早田満)
上巻: http://homepage2.nifty.com/oshiro/yagaue.html
下巻: http://homepage2.nifty.com/oshiro/yagashita.html
※早田晧園長のご子息による記録。(屋我地島 = やがじしま)

○沖縄愛楽園早田壕 (観光ガイドブックに載らない沖縄)
http://13.pro.tok2.com/~kariyushi/shiseki/senseki/ai.html
※早田晧園長時代に沖縄戦に備えて入所者が掘った避難壕の紹介。

沖縄戦のなかのハンセン病患者たち (林博史, 「Let's」No.31, 2001/06)
http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper35.htm

○愛楽園と戦争(名護市) (NHK, 2008/09/17)
http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/senseki/detail19.html

○戦争に振り回された療養所、沖縄愛楽園を訪れる (Alterna S, 2015/01/26-27)
上: http://alternas.jp/study/global/56943
下: http://alternas.jp/study/global/56951

○逃げることさえ許されなかった――ハンセン病患者の沖縄戦 (吉川由紀/沖縄国際大学非常勤講師, Synodos, 2015/08/27)
http://synodos.jp/society/14868

日本のハンセン病政策と愛楽園

ハンセン病は「癩(らい)菌」によって引き起こされる感染症で、症状は主に末梢神経障害と皮疹(ひしん = 皮膚のただれなど)です。感染力は非常に低く、昭和16年(1941年)に米国で治療法が発見されています。病名は明治6年(1873年)に癩(らい)菌を発見したノルウェーの医師、アルマウェル・ハンセン氏の名前を取って付けられました。ハンセン病患者は社会的にも法的にも過酷な差別を受けてきました。ハンセン病はかつては「癩(らい)病」と呼ばれていたそうですが、過酷な差別の歴史の中で使われていた呼称なので現在では使用は避けられており、歴史的な文脈以外ではハンセン病と呼ぶのが一般的だそうです。

ここで日本のハンセン病政策の歴史を振り返ってみたいと思います。日本では昭和初期から平成に至るまでハンセン病患者を終身強制隔離して絶滅させようという政策が取られていたそうです。日本のハンセン病対策の最初の法律は明治40年(1907年)制定の「癩(らい)予防ニ関スル件」で、放浪している患者を隔離することが目的だったようです。ところが昭和5年(1930年)頃、光田健輔医師の主導により「無癩(らい)県運動」が始まりました。すべてのハンセン病患者を強制隔離することで、ハンセン病の拡散を防ぎ撲滅を図る運動です。昭和6年(1931年)には光田健輔医師の働きかけにより「癩(らい)予防法」が制定され、隔離の対象が放浪患者だけでなく自宅療養者にも広げられました。その頃から国立療養所が次々に作られ、昭和16年(1941年)には愛楽園を含めて公立の療養所が国立に移管されました。

さて、戦時中に愛楽園に赴任した早田晧園長は「無癩(らい)県運動」を主導した光田健輔医師から指導を受けた医師の一人でした。そのため愛楽園でも強制隔離政策が推進されました。愛楽園は日本軍と協力して強制収容を推進していることから、ハンセン病患者と日本軍兵士が接触するのを防ぐことが目的の一つだったという見方もあるようです。前述の通り、ハンセン病の感染力は非常に低いにも関わらずです。

一方で、小笠原登博士(元京大助教授)のようにハンセン病患者の強制隔離・断種に反対していた学者もいたそうです。しかし、小笠原登博士は学会から葬り去られる結果となったそうです。当時は強制隔離推進派の勢いが相当強かったことが推察されます。

昭和16年(1941年)、反対派の小笠原登博士と推進派の早田晧医師(後の愛楽園園長)による論争が中外日報(宗教専門新聞)紙上で行われたそうです。この論争は下記記事で紹介されています。

○小笠原登の医療思想 ー 中外日報における早田皓との論争を手引きとして (田中裕, いのちの重み -ハンセン病問題の考察-)
http://members2.jcom.home.ne.jp/yutaka_tanaka/ogasawara/seimei_iryo.htm
※田中裕氏HP: http://members2.jcom.home.ne.jp/yutaka_tanaka/ より

推進派論客の早田晧医師は昭和11年(1936年)から昭和19年(1944年)まで岡山県にある国立ハンセン病療養所「長島愛生園」の医官だったそうです。前述の「無癩(らい)県運動」を主導した光田健輔医師は昭和11年(1936年)から昭和32年(1957年)まで長島愛生園の園長でしたので、早田晧医師は長島愛生園在任中のおよそ8年間、光田健輔医師の指導を受けていたものと思われます。上述の昭和16年(1941年)の論争の頃には推進派論客として有名だったのかもしれません。少なくとも、昭和19年(1944年)3月に沖縄愛楽園の園長に抜擢されるだけの信頼を強制隔離政策推進派から得ていたものと思います。

なお、上記論争記事の末尾には長島愛生園(岡山県)と沖縄愛楽園における昭和15年(1940年)〜昭和21年(1946年)の入所者数と死亡者数の推移が記されています。この表から、沖縄愛楽園では(日本軍と協力して強制収容が推進された)昭和19年(1944年)に入所者が急激に増えた後、昭和20年(1945年)、昭和21年(1946年)と入所者が減っていることが見てとれます。

さて、前述の通りハンセン病は感染力は非常に低く、昭和16年(1941年)には米国で治療法が発見されていました。ところが戦後になってもハンセン病患者の強制隔離政策は続き、昭和28年(1953年)に制定された「らい予防法」でも継続されました。平成8年(1996年)3月に「らい予防法の廃止に関する法律」が施行されてようやく国による強制隔離政策が終了しました。ハンセン病患者は安堵したのではないかと思います。しかし社会復帰や被害回復の道程は現在もまだまだ遠いようです。

以下、日本のハンセン病政策に関する参考資料です。

ハンセン病と皇室

ハンセン病対策は大きなテーマなのでたくさんの方々が関わっています。そしてそれぞれの活動に対して功罪賛否様々な評価がなされています。皇室の方々も例外ではなく、様々な活動をされ、様々な評価を受けています。

皇室の中でも、貞明皇后大正天皇の皇后)は救癩(らい)事業に尽くされた方として有名だそうです。貞明皇后の活動の中から、ハンナ・リデルの回春病院への寄付と癩(らい)予防協会への寄付を以下に紹介します。

イギリス人宣教師のハンナ・リデルは日本のハンセン病の歴史に大きな影響を与えた一人です。明治28年(1895年)、ハンナ・リデルは熊本市ハンセン病療養所「回春病院」を設立しました。貞明皇后は回春病院に対して、大正5年(1916年)以降毎年寄付をされたそうです。ちなみに、沖縄愛楽園の設立に多大な貢献をしたキリスト教伝道者・青木恵哉(けいさい)氏は、ハンナ・リデルに勧められて沖縄に行き、金銭面で月々の支援を受けています。ですから、貞明皇后は愛楽園設立を間接的に支援したと考えることもできるかもしれません。

また、昭和6年(1931年)に貞明皇后からの下賜金をもとに、「無癩(らい)県運動」を推進する「癩(らい)予防協会」が設立されました。初代会長は渋沢栄一氏でした。

「無癩(らい)県運動」では、貞明皇后の誕生日6月25日の前後一週間を「癩(らい)予防デー」として広報活動を集中的に行ったそうです。現在は6月25日を含む週の日曜日から土曜日までを「ハンセン病を正しく理解する週間」として様々な活動が行われているそうです。

○「ハンセン病を正しく理解する週間」の実施について (厚生労働省)
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/rikai/2.html

貞明皇后のご子息の高松宮宣仁親王大正天皇貞明皇后の第三皇子)もハンセン病患者の福祉の増進に尽力されたそうです。

昭和26年(1951年)に貞明皇后が亡くなられると、遺金の一部を基金として昭和27年(1952年)に「藤楓(とうふう)協会」が設立されました。藤楓協会は「癩(らい)予防協会」の後継団体で、総裁は高松宮宣仁親王でした。藤楓協会は平成15年(2003年)3月31日に解散し、その翌日「ふれあい福祉協会」が設立されて現在に至っています。

平成5年(1993年)には高松宮の名前を冠した「高松宮記念ハンセン病資料館」が開館しました。この資料館は、平成19年(2007年)のリニューアル・オープンの際に「国立ハンセン病資料館」と名称を改めています。

○国立ハンセン病資料館(旧高松宮記念ハンセン病資料館)
HP: http://www.hansen-dis.jp
https://ja.wikipedia.org/wiki/国立ハンセン病資料館

貞明皇后高松宮宣仁親王の活動は、天皇皇后両陛下(明仁天皇美智子皇后)にも大きな影響を与えているのではないかと思います。

美智子皇后の相談役」と呼ばれることもある神谷美恵子医師はハンセン病患者の治療に生涯を捧げたことで知られる精神科医です。ハンセン病治療に寄与するために医学の道に進み、昭和18年(1943年)に長島愛生園を訪れて光田健輔医師と知己になり、昭和32年(1957年)から長島愛生園においてハンセン病患者の精神医学調査を実施して、その業績をもとに昭和35年(1960年)に学位を取得しました。神谷美恵子医師の著書は、世間の人々がハンセン病療養所に抱くイメージに大きな影響を与えたそうです。神谷美恵子医師はキリスト教の影響を強く受けた方でもあったそうです。美智子皇后神谷美恵子医師を通してハンセン病への関心をさらに深めていった可能性も考えられると思います。

天皇皇后両陛下(明仁天皇美智子皇后)は全国に14ヶ所あるハンセン病療養所のすべてを訪問されているそうです。

沖縄愛楽園交流会館

平成27年(2015年)6月1日、ハンセン病に関する誤った認識や強制隔離政策の歴史を後世に伝えることを目的として沖縄愛楽園交流会館が開館しました。以下は開館を伝える記事です。

○隔離政策 過ち伝える 沖縄愛楽園交流会館、1日から一般公開 (琉球新報, 2015/05/30)
http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-243564.html

ハンセン病の差別の歴史伝える資料館、沖縄愛楽園内に開館 (Christian Today, 2015/06/19)
http://www.christiantoday.co.jp/articles/16333/20150619/okinawa-airakuen-koryukaikan-hansen-disease.htm

沖縄愛楽園交流会館からのお知らせは下記で見ることができます。

○沖縄愛楽園交流会館
FB: https://www.facebook.com/沖縄愛楽園交流会館-848285805261286
Tw: https://twitter.com/kouryu_airakuen

なお、資料館が併設されている国立ハンセン病療養所は沖縄愛楽園だけではなく、栗生楽泉園(群馬県)、長島愛生園(岡山県)、菊池恵楓園(熊本県)にもあるようです。

次回〔第4回〕予告

さて、次回〔第4回〕は皇太子ご夫妻(現在の明仁天皇美智子皇后)が初めての沖縄訪問で一番最初に訪れた「ひめゆりの塔」についてです。

【目次再掲】
第1回〕琉歌「歌声の響」
第2回〕沖縄民謡「だんじよかれよし」
第3回ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」
第4回沖縄戦慰霊碑「ひめゆりの塔