生きる918

生きるってなんだろう?

明仁天皇の最初の沖縄訪問 (4/4) 沖縄戦慰霊碑「ひめゆりの塔」

昭和50年(1975年)7月の皇太子殿下(明仁天皇)の最初の沖縄訪問と「歌声の響」について4回に分けて紹介しています。今回はその第4回です。

【目次】
第1回〕琉歌「歌声の響」
第2回〕沖縄民謡「だんじよかれよし」
第3回ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」
第4回沖縄戦慰霊碑「ひめゆりの塔

ひめゆりの塔

昭和50年(1975年)7月、皇太子ご夫妻(現在の明仁天皇美智子皇后)は沖縄国際海洋博覧会の開会式に出席するため初めて沖縄を訪問されました。滞在期間は7月17日(木)から7月19日(土)の3日間でした。

初日は沖縄本島最南端部の激戦の地に慰霊の旅に向かわれました。最初の訪問地は「ひめゆりの塔」でした。沖縄戦末期にこの地のガマ(壕)に逃げ込んだものの、米軍の攻撃を受けて亡くなられた沖縄陸軍病院第三外科の方々の慰霊碑です。その半数以上がひめゆり学徒隊の方々でした。

ひめゆりの塔事件

当時の沖縄の人々の天皇家に対する感情は控えめに言ってもあまり良いものではなかったようです。そのため、沖縄県警は警察官3700名による警備態勢を敷いていました。過剰警備と批判されるのを恐れて、当初方針から大幅に警備態勢を縮小してもこの人数でした。皇太子殿下(明仁天皇)は「石ぐらい投げられてもいい。そうしたことに恐れず、県民のなかに入っていきたい。」と沖縄訪問直前に周囲に語っていたそうです。そのような大きな覚悟を持って沖縄を訪問されました。訪問を受ける沖縄の人々も複雑な気持ちで、あるいは大きな怒りをもって訪問の日を迎えたのではないかと思います。

那覇空港から「ひめゆりの塔」に向かう途中で一つ目の事件が起きました。沿道の建物の3階に潜入した活動家が、皇太子ご夫妻(現在の明仁天皇美智子皇后)の車列に対してガラス瓶、スパナ、石などを投げつけた事件です。そして「ひめゆりの塔」の前で二つ目の事件が起きました。一週間前から「ひめゆりの壕」に潜んでいた活動家二人が、皇太子殿下(明仁天皇)の近くに向けて火炎瓶を投げつけた事件です。火炎瓶は献花台に直撃して炎上しました。皇太子ご夫妻は一時は送迎車内に避難されたものの、すぐに「ひめゆりの塔」に戻られて同行された方々を気遣われたそうです。幸い、どちらの事件でも皇太子ご夫妻に大きな怪我はありませんでしたので、それ以上の大きな事件に発展することはありませんでした。この二つの事件を総称して「ひめゆりの塔事件」と言うそうです。

後に、「ひめゆりの壕」から火炎瓶を投げた活動家は「この『闘争』は、皇太子および同妃の暗殺や殺傷が目的ではなく、皇太子及び皇族を『裁判闘争』に引き摺り出して『天皇制の戦争責任』を追及することが最終目的だった」(下記Wikipediaより)と主張しているそうです。至近距離から火炎瓶を投げつけたにもかかわらず、皇太子ご夫妻ではなく献花台に直撃したという事実も、この主張を裏付けているように思います。

ひめゆりの塔事件」を紹介する映像が下記にありました。

○1975年7月17日 沖縄 ひめゆりの塔 皇太子夫妻初訪問 (3分09秒) ( https://www.youtube.com/watch?v=kp_t7l6W0xc )

ひめゆり学徒隊

ひめゆり学徒隊の名称「ひめゆり」は、学徒隊の母校である沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」を組み合わせた言葉だそうです。戦前・戦中は漢字で「姫百合」と書かれていたそうですが、戦後はひらがなで「ひめゆり」と書くそうです。両校は併設校で、校長は兼任、教師の一部も兼任、学校施設も共有していたそうです。沖縄戦により壊滅、廃校となりました。

かつて両校があった地は、現在は沖縄都市モノレールゆいレール)「安里駅」東側の「栄町市場商店街」辺りだそうです。付近の大通りは「ひめゆり通り」と呼ばれているそうです(国道330号線の安里十字路〜与儀十字路)。

○栄町市場の歴史 (栄町市場商店街)
http://sakaemachi-ichiba.net/about.html

○「栄町市場」那覇の穴場観光スポットの魅力 (たびらい・沖縄)
http://www.okitour.net/sightseeing/tatsujin/00175/

○沖縄電気軌道(市街地路面電車)女学校前
http://manabey.nobody.jp/okirail/romen/jyogako.htm

沖縄戦当時、沖縄には男女中等学校(旧制中学校、高等女学校、実業学校)が計21校ありました。そのすべてから学徒が動員されたそうです。女子学徒は主に看護活動にあたり、ひめゆり学徒隊を含めて9つの学徒隊が編成されました。男子学徒は、上級生が「鉄血勤皇隊」(全12隊)に、下級生は「通信隊」(全7隊)に編成されました。そして沖縄の全学徒のうち2000名余りが戦場で亡くなられたそうです。

昭和20年(1945年)3月23日、米軍は沖縄への本格空襲を始めました。その日の深夜、ひめゆり学徒隊は沖縄守備軍(第32軍)直轄の沖縄陸軍病院に看護要員として動員されました。女子生徒222名と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊でした。沖縄陸軍病院は南風原(はえばる、フェーバル)の丘陵にありました。学徒隊の母校からは東南方向に数キロの位置です。

病院と言っても建物が並んでいる訳ではなく、丘の斜面に横穴(壕)が40近く掘られたものでした。壕内は土壁に沿って二段ベットが並べられていました。学徒隊はほとんど眠る間もないまま昼も夜も働き続けたそうです。血と膿と排泄物の悪臭が漂う壕内での看護活動に加えて、銃弾が飛び交う壕外での水汲み、食料の運搬、伝令、死体埋葬も学徒隊の仕事だったそうです。もしも壕の出入口に赤十字の旗が立てられていれば、壕外での作業はずっと安全だったのではないかとも思います。

下記ページによると、壕の一部が公開されているそうです。予約が必要とのことです。

○沖縄陸軍病院南風原壕群20号 (南風原町観光協会)
http://www.haebaru-kankou.jp/peace-education/military-hospital.html

○沖縄陸軍病院壕 (南風原町)
http://www.town.haebaru.okinawa.jp/hhp.nsf/0/35FF73DC82A851FB4925756F000EB6CB?OpenDocument

○沖縄陸軍病院壕群20号壕 (沖縄慰霊巡拝, 2013/04/05)
http://pilgrimageokinawan.blogspot.jp/2013/04/20.html

○飯上げの道 (NHK, 2011/07/27) (6分46秒) ( https://www.youtube.com/watch?v=7kP409oVJD4 )

動員から2ヶ月後の昭和20年(1945年)5月25日、南風原の沖縄陸軍病院に退去命令が出されました。生徒たちは歩ける患者を連れ、傷ついた友人を担架で運び、薬品や書類を背負って、砲弾の中を沖縄本島南部に撤退しました。そして伊原周辺に集まっていったそうです。そのあたりには「ガマ」と呼ばれる自然洞窟がたくさんありました。ガマには住民たちが避難していましたが、軍によって追い出され、代わりに軍や陸軍病院などが入りました。

6月18日夜半、陸軍病院は学徒に解散命令を言い渡しました。米軍が目の前に迫り、銃弾、砲弾が飛び交う中での解散命令です。日本軍の組織的な戦闘は6月20日から23日に終了したそうです。

現在「ひめゆりの塔」が立っているガマは陸軍病院第三外科が入っていた壕で、「伊原第三外科壕」と呼ばれているそうです。学徒を含めた陸軍病院関係者、通信兵、住民たちおよそ100名が入っていたそうです。学徒への解散命令翌朝の6月19日早朝、米軍のガス弾攻撃を受けて、80名余りが亡くなられたそうです。

ひめゆり平和祈念資料館
http://www.himeyuri.or.jp

ひめゆりの塔・平和祈念資料館の巡り方 (たびらい・沖縄)
http://www.okitour.net/sightseeing/tatsujin/00167/

魂魄の塔

皇太子ご夫妻(現在の明仁天皇美智子皇后)は「ひめゆりの塔」で献花された後、当初の予定を変更することなく慰霊の訪問を続けられました。次の目的地は「魂魄(こんぱく)の塔」でした。沖縄戦で亡くなられた3万5千人の方々の遺骨が、軍民・国籍を問わず葬られているそうです。

○魂魄の塔(糸満市) (NHK, 戦跡と証言, 2009/02/25)
http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/senseki/detail34.html

○魂魄の塔(こんぱくのとう) (那覇市役所HP)
http://www.city.naha.okinawa.jp/kakuka/heiwadanjyo/heiwahasshintosi/konpaku.html

そして帰京後、「魂魄の塔」を琉歌を詠まれました。

花よおしやげゆん(花を捧げます)
人知らぬ魂(人知れず亡くなった多くの人の魂に)
戦ないらぬ世よ(戦争のない世を)
肝に願て(心から願って)


【引用元】ひめゆりの塔事件直後に明仁皇太子が詠まれた平和の「琉歌」 (NEWSポストセブン, 2015/07/31)
http://www.news-postseven.com/archives/20150731_339124.html

沖縄国際海洋博覧会

戦後、沖縄は米国の統治下に置かれました。そして昭和47年(1972年)5月15日、沖縄はよやく日本に復帰しました。

その3年後、沖縄返還記念事業として沖縄国際海洋博覧会が開催されました。会期は昭和50年(1975年)7月20日〜昭和51年(1976年)1月18日の183日間でした。皇太子殿下(明仁天皇)は沖縄海洋博覧会の名誉総裁でした。皇太子ご夫妻は開会式にも閉会式にも出席されました。

さて、沖縄訪問2日目の7月18日(金)、皇太子ご夫妻は沖縄国際海洋博覧会の関係者とお会いになり、関連施設を見学されたそうです。その後、沖縄愛楽園を訪問されたそうです。沖縄訪問最終日の7月19日(土)には開会式に出席されました。下記は沖縄国際海洋博覧会直後のニュース映像です。開会式に出席された皇太子ご夫妻の姿も映っています(10秒頃〜13秒頃)。

沖縄国際海洋博覧会 (0分40秒) ( https://www.youtube.com/watch?v=-VXwI4zx_Tk )

博覧会跡地は、国営沖縄海洋博覧会記念公園となっているそうです。

○海洋博公園・沖縄美ら海水族館
HP: http://oki-park.jp/kaiyohaku/
FB: https://www.facebook.com/kaiyohaku.churaumi
https://ja.wikipedia.org/wiki/国営沖縄記念公園

昭和天皇と沖縄

下記記事によると「昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回、切り捨てられている」と沖縄の人は感じているそうです。

○<社説>昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ (琉球新報, 2014/09/10)
http://ryukyushimpo.jp/editorial/prentry-231371.html

一つ目は日本防衛の「捨て石」にされて沖縄戦に突入したこと。その結果、天皇の名の下に住民を巻き込んだ激しい地上戦が行われました。

二つ目は終戦前の和平工作で沖縄放棄の方針が示されたこと。

三つ目は米軍による沖縄占領状態の長期継続を希望した「沖縄メッセージ」。その結果、米国による沖縄統治は昭和47年(1972年)まで続き、今も軍事植民地状態が続いています。

昭和天皇による「沖縄メッセージ」は、下記で読むことができます。

○"天皇メッセージ" (沖縄県公文書館, 2008/03/25)
http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html
※要約と原文(PDF画像)

○(昭和)天皇メッセージ (太夢・多夢)
http://tamutamu2011.kuronowish.com/tennnoumesseji.htm
※背景と日本語訳と原文(画像)

昭和天皇の沖縄メッセージ (風のまにまに, 2006/12/31)
http://d.hatena.ne.jp/ironsand/20061231/p7
※日本語訳と原文(テキスト)

昭和天皇は戦前には沖縄を訪問していますが、戦後は沖縄を訪問することができないままとなりました。

明仁天皇と沖縄

明仁天皇の母方の祖母(邦彦王妃俔子)は旧薩摩藩主・島津家のご出身で、祖母方の曾祖父は最後の薩摩藩主・島津茂久です。その薩摩藩は、徳川家康の承認の下で慶長14年(1609年)に琉球王国に軍事侵攻し、征服しました。これを『琉球征伐』と言うそうです。さらに明治維新後、薩長を中心とした明治政府琉球王国を廃止し、沖縄県が設置されました。これを『琉球処分』と言うそうです。この二つを合わせて『琉球征服』と言うそうです。いずれもヤマトンチュの視点から作られた歴史用語ですので、ウチナンチュは別の言い方をしているかもしれません。

このような歴史があるからでしょうか、明仁天皇は沖縄に対して特別な思いがあるようです。明仁天皇の沖縄への思いは、平成15年(2003年)12月18日の誕生日に際しての記者会見で、質問に答える形でも述べられています。

天皇陛下お誕生日に際し(平成15年) (宮内庁, 2003/12/18)
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h15e.html

※上記ページは「宮内記者会代表質問」「関連質問」「この1年のご動静」の順に記されています。沖縄に対する思いは「関連質問」へのお答えとして記されています。

明仁天皇は上記の二首を含めて琉歌を幾つか詠まれていますが、琉歌を詠まれた天皇明仁天皇が史上初めてだそうです。16世紀から17世紀(日本の戦国時代から江戸時代初期頃)にかけて琉球王国が編纂した歌謡集『おもろさうし(オモロソウシ)』から琉歌を写し取って学ばれたそうです。

話は戻って、「ひめゆりの塔事件」のあった7月17日の夜、皇太子殿下(現在の明仁天皇)から下記の談話が発表されました。

過去に、多くの苦難を経験しながらも、常に平和を願望し続けてきた沖縄が、さきの対戦で、わが国では唯一の住民を巻き込む戦場と化し、幾多の悲惨な犠牲を払い今日にいたったことは、忘れることのできない大きな不幸であり、犠牲者や遺族の方々のことを思うとき、悲しみと痛恨の思いにひたされます。(略)払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものでなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地にこの地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません。(略)


【引用元】矢部宏治&須田慎太郎(共著)「戦争をしない国 明仁天皇メッセージ」(小学館, 2015/06/30) (p.32)
http://www.shogakukan.co.jp/books/09389757

これは天皇家と島津家の血を引く皇太子殿下(現在の明仁天皇)の決意の言葉だと思います。明仁天皇美智子皇后は、この時の沖縄訪問を含めて皇太子時代に5回、そして天皇即位後に5回、合わせて10回、沖縄を訪問されています。

感想

ひめゆりの塔」事件でも分かるように、当時の沖縄の天皇家に対する感情は決して良いものではありませんでした。その理由は「沖縄は本土防衛のための捨て石にされたから」と言ってよいようです。そのような状況の中で皇太子ご夫妻(現在の明仁天皇美智子皇后)は沖縄を訪問し、慰霊の祈りを捧げたり、各地を訪問されたりしました。「ひめゆりの塔」事件以外にも様々な形で天皇家に対する反感を感じた旅だったかもしれません。

愛楽園を訪れた際も、もしかしたら到着直後は入所者からの反感を感じていたかもしれません。ところが入所者一人一人と交流して愛楽園を離れる際には、入所者から自然に合唱が起きるところまで気持ちが近づいていました。それは入所者にとっても、皇太子ご夫妻にとっても、忘れがたい感動的な場面だったのではないかと思います。だからこそ琉歌に皇太子は詠まれ、妃殿下は作曲されたのではないかと思います。

明仁天皇美智子皇后は、皇太子ご夫妻時代に5回、天皇皇后両陛下として5回、沖縄を訪問されています。お二人にとって、最初に沖縄を訪問された際に愛楽園で聞いた「だんじよかれよし(ダンジュカリユシ)」の合唱は、その後の沖縄訪問にも影響を与えるような大切な思い出なのかもしれないなぁと思いました。


(了)

【目次再掲】
第1回〕琉歌「歌声の響」
第2回〕沖縄民謡「だんじよかれよし」
第3回ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」
第4回沖縄戦慰霊碑「ひめゆりの塔

明仁天皇の最初の沖縄訪問 (3/4) ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」

昭和50年(1975年)7月の皇太子殿下(明仁天皇)の最初の沖縄訪問と「歌声の響」について4回に分けて紹介しています。今回はその第3回です。

【目次】
第1回〕琉歌「歌声の響」
第2回〕沖縄民謡「だんじよかれよし」
第3回ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」
第4回沖縄戦慰霊碑「ひめゆりの塔

国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」

皇太子ご夫妻(現在の明仁天皇美智子皇后)が訪問された沖縄愛楽園は沖縄県名護市に位置する国立ハンセン病療養所です。昭和13年(1938年)に開園した沖縄県立国頭(くにがみ)愛楽園が前身です。

愛楽園のある名護市は南東部に米軍基地『キャンプ・シュワブ』と辺野古岬を抱えています。辺野古沖の基地建設問題で沖縄も日本も揺れていて盛んに報道されているので、名護市のことをよくご存知の方も多いと思います。愛楽園は名護市北部の羽地内海(はねじないかい)に浮かぶ屋我地島(やがじしま)の北端に位置しています。屋我地島は沖縄本島と東西二本の橋で結ばれています。

愛楽園が設立された土地は、キリスト教伝道者の青木恵哉(けいさい)氏がハンセン病患者への過酷な差別に苦しみながらも苦闘の末に手に入れた安住の地だそうです。愛楽園発祥の地には青木恵哉氏の頌徳(しょうとく)碑と銅像が建立されているそうです。

愛楽園は、青木恵哉氏が手に入れた土地を基にして昭和13年(1938年)に沖縄県立国頭(くにがみ)愛楽園として開園し、昭和16年(1941年)に国に移管されました。戦後は昭和21年(1946年)に米軍民政府、昭和27年(1952年)に琉球政府の所管となり、昭和47年(1972年)の本土復帰の際に国立療養所沖縄愛楽園となりました。

さて、以下では下記の順に愛楽園について紹介していきます。

戦時中の愛楽園

戦時中の愛楽園についての記事を読むと、当時の早田晧(はやた ひろし)園長の名前がよく登場します。早田晧園長は昭和19年(1944年)3月に着任、昭和21年(1946年)9月に離任したハンセン病を専門とする医師です。早田晧園長の着任は沖縄防衛のために第32軍が編成されたのと同時期ですので、日本軍の動きと連動した人事だったのかもしれません。

早田晧園長の着任と時を同じくして日本軍による沖縄のハンセン病患者の強制収容が始まりました。その結果、愛楽園には定員450名の倍以上の913名のハンセン病が収容されたそうです。早田晧園長は入所者の中で軽症な人たちに防空壕(通称、早田壕)を掘らせました。防空壕掘削はハンセン病患者には過酷な労働環境だったそうで、多くの入所者が重症になったり死に至ったりしたそうです。また、愛楽園は病院なのに敢えて赤十字のマークを掲げていませんでした。そのため米軍から日本軍の兵舎と間違われて、昭和19年(1944年)10月10日の「十・十空襲」では7時間余りに渡って激しい空襲を受け壊滅状態になったそうです。しかし防空壕のおかげで空襲で直接亡くなった方はほとんどいなかったそうです。

歴史に『もしも』は禁句かもしれませんが、それでも『もしも』赤十字のマークを掲げて病院であることを米軍に示していれば、空襲の心配はなかったかもしれません。そうなれば、防空壕掘削のための過酷な労働は不要だったかもしれませんし、空襲により食料庫が焼かれたり医療体制が破壊されたり衛生状態が悪化したりすることもなかったかもしれません。そうすれば、戦時中の死亡者数も重症者数もずっと少なくて済んだかもしれません。その『もしも』が起きなかったのは、もしかしたら日本軍のハンセン病政策と関係があったのかもしれません。そんなことを思いました。

以下、戦時中の愛楽園について様々な視点から書かれた記事です。沖縄のハンセン病患者、愛楽園の入所者が置かれた過酷な状況が伝わってまいります。

○屋我地島のドン・キホーテ (早田満)
上巻: http://homepage2.nifty.com/oshiro/yagaue.html
下巻: http://homepage2.nifty.com/oshiro/yagashita.html
※早田晧園長のご子息による記録。(屋我地島 = やがじしま)

○沖縄愛楽園早田壕 (観光ガイドブックに載らない沖縄)
http://13.pro.tok2.com/~kariyushi/shiseki/senseki/ai.html
※早田晧園長時代に沖縄戦に備えて入所者が掘った避難壕の紹介。

沖縄戦のなかのハンセン病患者たち (林博史, 「Let's」No.31, 2001/06)
http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper35.htm

○愛楽園と戦争(名護市) (NHK, 2008/09/17)
http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/senseki/detail19.html

○戦争に振り回された療養所、沖縄愛楽園を訪れる (Alterna S, 2015/01/26-27)
上: http://alternas.jp/study/global/56943
下: http://alternas.jp/study/global/56951

○逃げることさえ許されなかった――ハンセン病患者の沖縄戦 (吉川由紀/沖縄国際大学非常勤講師, Synodos, 2015/08/27)
http://synodos.jp/society/14868

日本のハンセン病政策と愛楽園

ハンセン病は「癩(らい)菌」によって引き起こされる感染症で、症状は主に末梢神経障害と皮疹(ひしん = 皮膚のただれなど)です。感染力は非常に低く、昭和16年(1941年)に米国で治療法が発見されています。病名は明治6年(1873年)に癩(らい)菌を発見したノルウェーの医師、アルマウェル・ハンセン氏の名前を取って付けられました。ハンセン病患者は社会的にも法的にも過酷な差別を受けてきました。ハンセン病はかつては「癩(らい)病」と呼ばれていたそうですが、過酷な差別の歴史の中で使われていた呼称なので現在では使用は避けられており、歴史的な文脈以外ではハンセン病と呼ぶのが一般的だそうです。

ここで日本のハンセン病政策の歴史を振り返ってみたいと思います。日本では昭和初期から平成に至るまでハンセン病患者を終身強制隔離して絶滅させようという政策が取られていたそうです。日本のハンセン病対策の最初の法律は明治40年(1907年)制定の「癩(らい)予防ニ関スル件」で、放浪している患者を隔離することが目的だったようです。ところが昭和5年(1930年)頃、光田健輔医師の主導により「無癩(らい)県運動」が始まりました。すべてのハンセン病患者を強制隔離することで、ハンセン病の拡散を防ぎ撲滅を図る運動です。昭和6年(1931年)には光田健輔医師の働きかけにより「癩(らい)予防法」が制定され、隔離の対象が放浪患者だけでなく自宅療養者にも広げられました。その頃から国立療養所が次々に作られ、昭和16年(1941年)には愛楽園を含めて公立の療養所が国立に移管されました。

さて、戦時中に愛楽園に赴任した早田晧園長は「無癩(らい)県運動」を主導した光田健輔医師から指導を受けた医師の一人でした。そのため愛楽園でも強制隔離政策が推進されました。愛楽園は日本軍と協力して強制収容を推進していることから、ハンセン病患者と日本軍兵士が接触するのを防ぐことが目的の一つだったという見方もあるようです。前述の通り、ハンセン病の感染力は非常に低いにも関わらずです。

一方で、小笠原登博士(元京大助教授)のようにハンセン病患者の強制隔離・断種に反対していた学者もいたそうです。しかし、小笠原登博士は学会から葬り去られる結果となったそうです。当時は強制隔離推進派の勢いが相当強かったことが推察されます。

昭和16年(1941年)、反対派の小笠原登博士と推進派の早田晧医師(後の愛楽園園長)による論争が中外日報(宗教専門新聞)紙上で行われたそうです。この論争は下記記事で紹介されています。

○小笠原登の医療思想 ー 中外日報における早田皓との論争を手引きとして (田中裕, いのちの重み -ハンセン病問題の考察-)
http://members2.jcom.home.ne.jp/yutaka_tanaka/ogasawara/seimei_iryo.htm
※田中裕氏HP: http://members2.jcom.home.ne.jp/yutaka_tanaka/ より

推進派論客の早田晧医師は昭和11年(1936年)から昭和19年(1944年)まで岡山県にある国立ハンセン病療養所「長島愛生園」の医官だったそうです。前述の「無癩(らい)県運動」を主導した光田健輔医師は昭和11年(1936年)から昭和32年(1957年)まで長島愛生園の園長でしたので、早田晧医師は長島愛生園在任中のおよそ8年間、光田健輔医師の指導を受けていたものと思われます。上述の昭和16年(1941年)の論争の頃には推進派論客として有名だったのかもしれません。少なくとも、昭和19年(1944年)3月に沖縄愛楽園の園長に抜擢されるだけの信頼を強制隔離政策推進派から得ていたものと思います。

なお、上記論争記事の末尾には長島愛生園(岡山県)と沖縄愛楽園における昭和15年(1940年)〜昭和21年(1946年)の入所者数と死亡者数の推移が記されています。この表から、沖縄愛楽園では(日本軍と協力して強制収容が推進された)昭和19年(1944年)に入所者が急激に増えた後、昭和20年(1945年)、昭和21年(1946年)と入所者が減っていることが見てとれます。

さて、前述の通りハンセン病は感染力は非常に低く、昭和16年(1941年)には米国で治療法が発見されていました。ところが戦後になってもハンセン病患者の強制隔離政策は続き、昭和28年(1953年)に制定された「らい予防法」でも継続されました。平成8年(1996年)3月に「らい予防法の廃止に関する法律」が施行されてようやく国による強制隔離政策が終了しました。ハンセン病患者は安堵したのではないかと思います。しかし社会復帰や被害回復の道程は現在もまだまだ遠いようです。

以下、日本のハンセン病政策に関する参考資料です。

ハンセン病と皇室

ハンセン病対策は大きなテーマなのでたくさんの方々が関わっています。そしてそれぞれの活動に対して功罪賛否様々な評価がなされています。皇室の方々も例外ではなく、様々な活動をされ、様々な評価を受けています。

皇室の中でも、貞明皇后大正天皇の皇后)は救癩(らい)事業に尽くされた方として有名だそうです。貞明皇后の活動の中から、ハンナ・リデルの回春病院への寄付と癩(らい)予防協会への寄付を以下に紹介します。

イギリス人宣教師のハンナ・リデルは日本のハンセン病の歴史に大きな影響を与えた一人です。明治28年(1895年)、ハンナ・リデルは熊本市ハンセン病療養所「回春病院」を設立しました。貞明皇后は回春病院に対して、大正5年(1916年)以降毎年寄付をされたそうです。ちなみに、沖縄愛楽園の設立に多大な貢献をしたキリスト教伝道者・青木恵哉(けいさい)氏は、ハンナ・リデルに勧められて沖縄に行き、金銭面で月々の支援を受けています。ですから、貞明皇后は愛楽園設立を間接的に支援したと考えることもできるかもしれません。

また、昭和6年(1931年)に貞明皇后からの下賜金をもとに、「無癩(らい)県運動」を推進する「癩(らい)予防協会」が設立されました。初代会長は渋沢栄一氏でした。

「無癩(らい)県運動」では、貞明皇后の誕生日6月25日の前後一週間を「癩(らい)予防デー」として広報活動を集中的に行ったそうです。現在は6月25日を含む週の日曜日から土曜日までを「ハンセン病を正しく理解する週間」として様々な活動が行われているそうです。

○「ハンセン病を正しく理解する週間」の実施について (厚生労働省)
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/rikai/2.html

貞明皇后のご子息の高松宮宣仁親王大正天皇貞明皇后の第三皇子)もハンセン病患者の福祉の増進に尽力されたそうです。

昭和26年(1951年)に貞明皇后が亡くなられると、遺金の一部を基金として昭和27年(1952年)に「藤楓(とうふう)協会」が設立されました。藤楓協会は「癩(らい)予防協会」の後継団体で、総裁は高松宮宣仁親王でした。藤楓協会は平成15年(2003年)3月31日に解散し、その翌日「ふれあい福祉協会」が設立されて現在に至っています。

平成5年(1993年)には高松宮の名前を冠した「高松宮記念ハンセン病資料館」が開館しました。この資料館は、平成19年(2007年)のリニューアル・オープンの際に「国立ハンセン病資料館」と名称を改めています。

○国立ハンセン病資料館(旧高松宮記念ハンセン病資料館)
HP: http://www.hansen-dis.jp
https://ja.wikipedia.org/wiki/国立ハンセン病資料館

貞明皇后高松宮宣仁親王の活動は、天皇皇后両陛下(明仁天皇美智子皇后)にも大きな影響を与えているのではないかと思います。

美智子皇后の相談役」と呼ばれることもある神谷美恵子医師はハンセン病患者の治療に生涯を捧げたことで知られる精神科医です。ハンセン病治療に寄与するために医学の道に進み、昭和18年(1943年)に長島愛生園を訪れて光田健輔医師と知己になり、昭和32年(1957年)から長島愛生園においてハンセン病患者の精神医学調査を実施して、その業績をもとに昭和35年(1960年)に学位を取得しました。神谷美恵子医師の著書は、世間の人々がハンセン病療養所に抱くイメージに大きな影響を与えたそうです。神谷美恵子医師はキリスト教の影響を強く受けた方でもあったそうです。美智子皇后神谷美恵子医師を通してハンセン病への関心をさらに深めていった可能性も考えられると思います。

天皇皇后両陛下(明仁天皇美智子皇后)は全国に14ヶ所あるハンセン病療養所のすべてを訪問されているそうです。

沖縄愛楽園交流会館

平成27年(2015年)6月1日、ハンセン病に関する誤った認識や強制隔離政策の歴史を後世に伝えることを目的として沖縄愛楽園交流会館が開館しました。以下は開館を伝える記事です。

○隔離政策 過ち伝える 沖縄愛楽園交流会館、1日から一般公開 (琉球新報, 2015/05/30)
http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-243564.html

ハンセン病の差別の歴史伝える資料館、沖縄愛楽園内に開館 (Christian Today, 2015/06/19)
http://www.christiantoday.co.jp/articles/16333/20150619/okinawa-airakuen-koryukaikan-hansen-disease.htm

沖縄愛楽園交流会館からのお知らせは下記で見ることができます。

○沖縄愛楽園交流会館
FB: https://www.facebook.com/沖縄愛楽園交流会館-848285805261286
Tw: https://twitter.com/kouryu_airakuen

なお、資料館が併設されている国立ハンセン病療養所は沖縄愛楽園だけではなく、栗生楽泉園(群馬県)、長島愛生園(岡山県)、菊池恵楓園(熊本県)にもあるようです。

次回〔第4回〕予告

さて、次回〔第4回〕は皇太子ご夫妻(現在の明仁天皇美智子皇后)が初めての沖縄訪問で一番最初に訪れた「ひめゆりの塔」についてです。

【目次再掲】
第1回〕琉歌「歌声の響」
第2回〕沖縄民謡「だんじよかれよし」
第3回ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」
第4回沖縄戦慰霊碑「ひめゆりの塔

明仁天皇の最初の沖縄訪問 (2/4) 沖縄民謡「だんじよかれよし」

昭和50年(1975年)7月の皇太子殿下(明仁天皇)の最初の沖縄訪問と「歌声の響」について4回に分けて紹介しています。今回はその第2回です。

【目次】
第1回〕琉歌「歌声の響」
第2回〕沖縄民謡「だんじよかれよし」
第3回ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」
第4回沖縄戦慰霊碑「ひめゆりの塔

沖縄民謡「だんじよかれよし(ダンジュカリユシ)」

ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」の入所者の方々が皇太子ご夫妻(現在の明仁天皇美智子皇后)をお見送りする際に合唱した「だんじよかれよし(ダンジュカリユシ)」は沖縄民謡の船出歌だそうです。曲名は「まことにめでたい」という意味です。〔第1回〕の記事に書いたように、曲名は琉球歴史的仮名遣いでは「だんじよかれよし」と書き、読む時は「ダンジュカリユシ」と発音するそうです。皇太子殿下(明仁天皇)の琉歌二首は、どちらも先頭に曲名を詠み込んでいます。この曲は下記の映像で聞くことができます。

○沖縄民謡 だんじゅかりゆし 唄者 乙女椿 (2012/10/05) (3分09秒) ( https://www.youtube.com/watch?v=EFhs5zhWttQ )

また、「だんじよかれよし(ダンジュカリユシ)」の歌に合わせて何十人もの踊り手がエイサーを舞う映像が下記にありました。

○WUF5プレイベント in 首里城「だんじゅかりゆし」 (2011/07/25) (4分06秒) ( https://www.youtube.com/watch?v=ri-4y8cpKIg )

この船出歌の内容は下記だそうです。

“今日と言う選ばれた日、とてもおめでたい日です。今日の船出を祝う様に、とも綱をとけば大変順風です。”と歌われています。


だんじゅはとは、げにこそという形容詞、かりゆしはめでたいの意味になります。


【引用元】「沖縄おめでたい歌 決定盤」 (リスペクトレコード, 2009/12/02)
http://www.respect-record.co.jp/discs/res157.html

曲名後半の「かれよし(カリユシ)」と同じ単語が、沖縄の「かりゆしウェア」という名称にも使われています。どちらも「めでたい」という意味だそうです。

「だんじよかれよし(ダンジュカリユシ)」の歌詞

さて、下記ページに「だんじよかれよし(ダンジュカリユシ)」の歌詞が掲載されていました。歌詞は八八八六の形式の琉歌が何首か並んだもので、所々にお囃子の声が入っています。お囃子の声は「サーかりゆし」のように短いこともあれば、「ハリヨ(中略) サーサユーハイセー」のように琉歌部分の倍くらい長いこともあります。歌詞にはバリエーションがあるようで、下記の二つの歌詞ページでは琉歌の順番や内容等が若干異なっていますし、上記で紹介した映像の歌詞とも若干異なっています。ですから下記の歌詞は参考程度に捉えて、お好きな方をご覧ください。

○「だんじゅかりゆし」の歌詞 (音楽研究所)
http://www.mu-tech.co.jp/music_files/lyric/Danjyu_Kariyushi.html
※横書き(テキスト)と縦書き(画像)の両方が用意されています。パソコンで見られる場合や印刷される場合にはこちらの方が見やすいと思います。

○だんじゅかりゆし/沖縄民謡-カラオケ・歌詞検索 (JOYSOUND)
https://www.joysound.com/web/search/song/27393
※横書きの歌詞をスクロールしながら見るようになっています。もしかしたらスマホではこちらの方が見やすいかもしれません。

ところで、後者(JOYSOUND)の歌詞ページでは作詞作曲者欄に伊良波尹吉と書かれていますが、この情報が事実なのか編集ミスなのかは未確認です。下記記事に書かれているように、伊良波尹吉は沖縄の演劇の世界で活躍されたとても著名で多才な方だったそうです。

○伊良波 尹吉(いらは いんきち、明治19年(1886年)〜昭和26年(1951年))
http://www.weblio.jp/content/伊良波尹吉

次回〔第3回〕予告

さて、次回〔第3回〕は皇太子ご夫妻(現在の明仁天皇美智子皇后)が訪問された国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」についてです。

【目次再掲】
第1回〕琉歌「歌声の響」
第2回〕沖縄民謡「だんじよかれよし」
第3回ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」
第4回沖縄戦慰霊碑「ひめゆりの塔

明仁天皇の最初の沖縄訪問 (1/4) 琉歌「歌声の響」

昭和50年(1975年)7月、沖縄国際海洋博覧会の開会式に出席するため、皇太子ご夫妻(現在の明仁天皇美智子皇后)は初めて沖縄を訪問されました。その際に、ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」を訪れて入所者一人一人と交流されました。愛楽園からの帰り際、入所者から自然に合唱が起きたそうです。歌われたのは船出を祝う沖縄民謡「だんじょかれよし」。皇太子ご夫妻は真夏の炎天下に立ったまま、その歌に聞き入られたそうです。後に、そのときの光景を皇太子殿下(明仁天皇)は琉歌(八八八六の三十音の琉球定型詩)に詠まれ、妃殿下(美智子皇后)はその琉歌に相応(ふさわ)しい曲を付けられました。こうして「歌声の響」という曲が生まれました。

さて、これから皇太子殿下(明仁天皇)の最初の沖縄訪問と「歌声の響」について4回に分けて紹介していきます。今回はその第1回です。

【目次】
第1回〕琉歌「歌声の響」
第2回〕沖縄民謡「だんじよかれよし」
第3回ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」
第4回沖縄戦慰霊碑「ひめゆりの塔

琉歌「歌声の響」

昭和50年(1975年)7月、皇太子ご夫妻(現在の明仁天皇美智子皇后)は初めて沖縄を訪問されました。そのときのハンセン病療養所「沖縄愛楽園」での思い出を、帰京後、皇太子殿下(明仁天皇)は琉歌(りゅうか)に詠まれました。琉歌は八八八六の三十音の形式を持つ琉球定型詩です(他の形式もあるそうです)。

●皇太子殿下の琉歌


だんじよかれよしの 歌声の響
見送る笑顔 目にど残る


(謹訳)私たちの旅の安全を願うだんじよかれよしの 歌声がひびき、
見送ってくれた人々の笑顔が、いつまでの目に残っています。


だんじょかれよしの 歌や湧上がたん
ゆうな咲きゆる島 肝に残て


(謹訳)私たちが立ち去ろうとすると だんじよかれよしの歌声が湧き上がりました。
ゆうなの花が、美しく咲いている島の人々のことがいつまでも心に残っています。


【引用元】沖縄復帰の証言(43) (宮田裕, ゆがふ・うちな~(沖縄)の明るく豊かな未来を語ろう!, 2013/02/26)
http://yugafu-uchina.seesaa.net/article/331929303.html

上記の琉歌は琉球歴史的仮名遣いで書かれているそうで、読む時は下記のカッコ内のように発音するそうです。

だんじよかれよし(ダンジュカリユシ)の(ヌ)歌声(ウタグイ)の(ヌ)響(フィビチ)
見送る(ミウクル)笑顔(ワレガウ)目(ミ)に(ニ)ど(ドゥ)残る(ヌクル)


だんじよかれよし(ダンジュカリユシ)の(ヌ)歌や(ウタヤ)湧上がたん(ワチャガタン)
ゆうな(ユウナ)咲きゆる(サチュル)島(シマ)肝(チム)に(ニ)残て(ヌクティ)

二首目に詠まれている「ユウナ」の花は、和名では「オオハマボウ」と呼ばれている花だそうです。

明仁天皇作詞&美智子皇后作曲「歌声の響」の誕生

皇太子殿下(明仁天皇)が最初に詠まれたのは上記の一首目の琉歌でした。それを愛楽園に贈られたそうです。愛楽園の入所者の方々は最初は沖縄民謡の節に乗せて歌っていたそうですが、そのうち「特別な曲があれば」という声が上がるようになったそうです。そこで皇太子殿下(明仁天皇)の琉歌に相応(ふさわ)しい曲を妃殿下(美智子皇后)が琉球音楽風に作曲されました。その際、皇太子殿下(明仁天皇)は上記の二首目の琉歌を新たに詠まれたそうです。こうして「歌声の響」の曲が生まれました。

下記記事に「歌声の響」誕生の経緯が詳しく書かれています。

○「歌声の響」CDブックに 天皇陛下作詞、皇后さま作曲 ハンセン病療養所訪問機に (朝日新聞, 2015/09/29)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11990016.html

この「歌声の響」を全曲通して聴くことのできる映像を探したのですが、残念ながら見つけられませんでした。その代わりに「歌声の響」の曲の一部を聞くことができる映像を見つけました。下記のニュース映像中の32秒〜48秒あたりで「歌声の響」の曲の一部を聞くことができます。

○両陛下が“サプライズ皇宮警察コンサート (NNN, 2014/10/21) (1分15秒) ( http://www.dailymotion.com/video/x28cu82 )

このコンサートの様子を伝える産経新聞の記事が下記にありました。

○両陛下、傘寿お祝いする皇宮警察コンサートを“サプライズ”ご鑑賞 (産経新聞, 2014/10/21)
http://www.sankei.com/life/news/141021/lif1410210035-n1.html

CDブック「歌声の響」

その「歌声の響」のCDブックが2015年11月に発売されるそうです。

宮内庁(監修)「天皇陛下御作詞 皇后陛下御作曲 歌声の響(CD付)」(朝日新聞出版, 2015/11/06)
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=17510

出版社によると『皇太子時代に沖縄を初めて訪ねられた天皇陛下がお詠みになった御歌に、皇后陛下が曲を添えられた。これまで10回ご訪問されるなど、両陛下の沖縄に対する思いは深い。人々との交流から生まれた御歌を、日本を代表するソプラノ歌手、鮫島有美子が歌い上げる。』とのことです。制作には下記の方々が携わられたそうです。聞き応えのあるCDに仕上がっていることと思います。

「歌声の響」誕生の背景もより詳しく書かれているのではないかと思います。

次回〔第2回〕予告

さて、次回〔第2回〕は琉歌「歌声の響」に詠み込まれている沖縄民謡「だんじよかれよし(ダンジュカリユシ)」についてです。

【目次再掲】
第1回〕琉歌「歌声の響」
第2回〕沖縄民謡「だんじよかれよし」
第3回ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」
第4回沖縄戦慰霊碑「ひめゆりの塔

行動する平和思想家・明仁天皇

行動する平和思想家・明仁天皇について書かれた書籍が、平成27年(2015年)夏に相次いで2冊出版されました。

後者は成人前に重点を置いているのに対して、前者は成人後に重点を置いています。以下では、この二冊について簡単に紹介します。

「戦争をしない国 明仁天皇メッセージ」

○矢部宏治&須田慎太郎(共著)「戦争をしない国 明仁天皇メッセージ」(小学館, 2015/06/30)
HP: http://www.shogakukan.co.jp/books/09389757
FB: https://www.facebook.com/sensouwoshinaikuni
Tw: https://twitter.com/no_war_country

この本は、明仁天皇の少年時代、沖縄訪問、東日本大震災後、近隣諸国との関係などにおけるお言葉や行動を丁寧に紹介することを通して、明仁天皇のお人柄や思想などを浮かび上がらせる構成になっています。

以下は、著者からの映像メッセージです(2点あります)。

○「戦争をしない国 明仁天皇メッセージ」 (矢部宏治, ウチノヨメ, 2015/06/15) (10分16秒) ( https://www.youtube.com/watch?v=0ogdHYAXx4M )

○『戦争をしない国—明仁天皇メッセージ』刊行記念対談 矢部宏治・孫崎享 (MidoriJournal, 2015/06/19) (43分01秒) ( https://www.youtube.com/watch?v=SOtZDPj00oo )

以下は、書評記事です。

○戦争をしない国 ~明仁天皇からのメッセージ~ (田中龍作ジャーナル, 2015/06/22)
http://tanakaryusaku.jp/2015/06/00011426

明仁天皇昭和天皇の最大の違い おことば収録本の著者考察 (NEWSポストセブン, 2015/06/30)
http://www.news-postseven.com/archives/20150630_332536.html

○安保法採決へ! 天皇・皇后が“逆賊”安倍首相に抗した言葉は踏みにじられてしまうのか (エンジョウトオル, Litera, 2015/07/15)
http://lite-ra.com/2015/07/post-1283.html

明仁天皇と平和主義」

○斉藤利彦(著)「明仁天皇と平和主義」(朝日新聞出版, 2015/07/13)
HP: http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=17197

明仁天皇は、昭和8年(1933年)12月23日に大日本帝國憲法明治憲法)下で皇太子として誕生され、昭和22年(1947年)5月3日(満13歳)より日本国憲法昭和憲法)の下で皇太子として成長し、昭和34年(1959年)4月10日に美智子妃と結婚されました。その過程が丹念に描かれています。また、平成23年(2011年)の東日本大震災後の行動、昭和50年(1975年)からの沖縄訪問、第二次世界大戦時の南洋の戦地慰霊などが紹介されています。この本には、明仁天皇が「象徴天皇」としての在り方を考え抜き、作り上げていく姿が描かれていると思います。

以下は、書評記事です。

○戦後70年談話で迷走、安倍首相が怯える「天皇のお言葉」…天皇から憲法軽視と歴史修正主義への批判が? (野尻民夫, Litera, 2015/08/13)
http://lite-ra.com/2015/08/post-1383.html

感想

上記の本を読むまでは、私は天皇制にはあまり興味がありませんでした。ユネスコ無形文化遺産に登録して、日本の政治や宗教と切り離した方が良いのではないかと思ってるくらいです。しかし上記二冊の本のお陰で明仁天皇の思想には大いに興味を持つようになりました。

明仁天皇は魚類学者として論文を28編発表されているそうです。願わくば平和思想家としての著作も残していただければと思うのですが、お立場上、折々のお言葉や御製(詩文や和歌)以上のものは相当難しいのかもしれません。だからこそ、ご自身の思想を行動で示されているのではないかと思います。

「目は口ほどに物を言う」ということわざがありますが、明仁天皇を見ていると「行いは口以上に物を言う」と思えてきます。明仁天皇はいま私がもっとも注目している『行動する平和思想家』です。

美輪明宏さんの長崎での被爆体験談

美輪明宏さんは長崎市出身で1935年 (昭和10年) 5月15日生まれ。長崎に原爆が投下された1945年 (昭和20年) 8月9日11時02分頃はちょうど窓際で絵を描いていたそうです。絵の出来具合を見ようと絵を立てかけて後ろに下がったところで、原爆が炸裂したそうです。60年前の10歳だった時の体験を、つい昨日のことのように語っておられます(映像中の1分30秒〜7分35秒)。

○「あの日 昭和20年の記憶」 (NHK BS2, 2005/08/09) (8分41秒) ( http://www.youtube.com/watch?v=tyc9e1QWF50)

美輪明宏さん
HP: http://o-miwa.co.jp
http://ja.wikipedia.org/wiki/美輪明宏

この映像は2005年のNHK BS2の番組「あの日 昭和20年の記憶」で放送された映像と思われます。この番組は2005年(平成17年)に1年間かけて毎日放送された10分間の帯番組です。

この時の美輪明宏さんのお話は、下記ブログ記事の8月9日の項に文字起こしされています。このブログ記事は「あの日 昭和20年の記憶」の8月放送分の紹介記事ですので、前後は他の日の放送内容が紹介されています。

○あの日 昭和20年の記憶 8月編 (身長147の感想日記, 2005/09/06)
http://tyantyan.tea-nifty.com/tibi147/2005/09/post_dd03.html

ところで、長崎の原爆については下記記事に概要が書かれています。

下記は長崎に投下された原子爆弾「Fat Man」の無声映像です。テニアン島での準備作業と長崎上空での投下後の状況が映されています。あの雲の下に美輪明宏さんもいたんだなぁと思いながら見ていると胸がとても苦しくなりました。

○Unedited footage of the bombing of Nagasaki (silent) (11分20秒) ( http://www.youtube.com/watch?v=Z9v5sW6t0zI )

ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?

「平和への道はない。平和こそが道なんだ。」

ベトナム戦争に従軍した米国の元海兵隊員の故アレン・ネルソンさんの言葉だそうです。

アレンさんは1995年の海兵隊員による沖縄少女暴行事件をきっかけに日本でも講演活動を始めたそうです。日本に来て日本国憲法第9条を知ったときの感動を、次のように表現しています。

憲法第9条を読んだとき、自分の目を疑いました。あまりに力強く、あまりに素晴らしかったからです。日本国憲法第9条は、いかなる核兵器よりも強力であり、いかなる国のいかなる軍隊よりも強力なのです。

下記の動画は、故アレン・ネルソンさんの活動のドキュメンタリー映像です。日本でのアレンさんの活動を紹介している「9条を抱きしめて」というDVDをベースに、新たな映像やインタビューを加えて構成されたものだそうです。

○9条を抱きしめて~元米海兵隊員が語る戦争と平和~ (日本テレビ系, 2015/05/03) (45分38秒) ( https://www.dailymotion.com/video/x2p1r37 )

このドキュメンタリーで紹介されている書籍は下記です。

○コミック「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 (三枝義浩, 2005/9/16)
http://www.amazon.co.jp/dp/4063720705

講談社文庫「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 ベトナム帰還兵が語る「ほんとうの戦争」(アレン・ネルソン, 2010/3/12)
http://www.amazon.co.jp/dp/4062766035

このドキュメンタリーのベースとなったDVD「9条を抱きしめて」の入手方法は下記のブログに紹介されています。

○アレン・ネルソン平和プロジェクト 2013
http://d.hatena.ne.jp/shioshiohida+Allen_Nelson/

【参考】PR版「9条を抱きしめて」〜元米海兵隊員アレン・ネルソンが語る戦争と平和〜 (2013/07/14)
https://www.youtube.com/watch?v=ktrMikJRxoY

アレン・ネルソン平和プロジェクト代表の佐野明弘さんは浄土真宗の寺院・光闡坊(こうせんぼう)のご住職でもあられます。光闡坊にはアレン・ネルソンさんの遺骨が収められています。上記のドキュメンタリーでも、37分58秒頃〜40分37秒に光闡坊がご住職と共に紹介されています。

○アレン・ネルソンさんの遺骨 石川県加賀市へ (2009/07/08)
http://blog.goo.ne.jp/ns3082/e/2a21ad1f54e48ef1706c5e8416d1380e

○お寺: 光闡坊 (こうせんぼう)
〒922-0433 石川県加賀市山田町西山田町カ−53

○ご住職: 佐野明弘(さの・あきひろ)  1958年静岡県生まれ。石川県加賀市蓮如上人御旧跡光闡坊住持。真宗大谷派教師、東本願寺同朋会館教導。アレン・ネルソン平和プロジェクト代表、放射能測定室こうせんぼう代表。22歳で仏門に入り、6年あまり禅宗僧侶として学ぶ。35歳で真宗僧侶(門徒)に転ずる。著書に『人間といういのちの相』(III、IV共著 東本願寺出版部)、『人間を生きる』(真宗大谷派東京教区)、『人間を生きる』(真宗光明団)など。(…以上、ご住職の著書の著者紹介欄より…)

また、このドキュメンタリーの最後の方(40分37秒〜41分21秒)で紹介されている奨学金は下記です。

○アレン・ネルソン奨学金(アレン・ネルソン基金沖縄の会)
http://alenokinawa.ti-da.net

最後に、このドキュメンタリーについて紹介した記事です。

○「憲法9条核兵器より強力だ」米軍元海兵隊員が語った本当の戦争と日本国憲法の価値 (小杉みすず, Litera, 2015/07/04)
http://lite-ra.com/2015/07/post-1244.html

追伸。アレン・ネルソンさんが登場するDVDがもう一つありました。2009年作品、51分間、日本語字幕付きとのことです。

○【DVD】アレン・ネルソン-ベトナムの記憶 (森の映画社★札幌編集室, 2008/01/04)
http://america-banzai.blogspot.jp/2008/01/dvd.html

○アレン・ネルソン(Allen Nelson) 元アメリカ海兵隊員。1947年7月30日、ニューヨーク・ブルックリンに生まれる。貧困家庭に育ち、高校中退後、1965年、18歳で海兵隊に志願入隊。1966年、沖縄駐留を経て、ベトナム戦争の最前線に派遣。1970年1月に除隊するが、心的外傷後ストレス障害PTSD)に、長く苦しむ。1995年に沖縄で起きた海兵隊員による少女暴行事件をきっかけに、1996年、沖縄を訪れる。以来、毎年、市民グループの招きで来日。全国各地で、延べ1000回以上、自身の体験を語り続けた。2009年1月 多発性骨髄腫を発症。2009年3月25日 家族に見守られながら永眠。多発性骨髄腫は、ベトナム戦争で米軍が使用した枯葉剤被曝した兵士に、多発する病気であると、アメリカ退役軍人省も認めている。(…以上、このDVDのアレン・ネルソンさん紹介欄より…)


※追記(2015/11/21)。「平和への道はない。平和こそが道なんだ。」はA.J.マスティさんの言葉だそうです。

原文: “There is no way to peace — peace is the way”

参考: https://en.wikiquote.org/wiki/A._J._Muste

○"There Is No Way to Peace, Peace Is the Way": A.J. Muste and American Radical Pacifism (Origins: Current Events in Historical Perspective, 2015/02)
http://origins.osu.edu/review/there-no-way-peace-peace-way-aj-muste-and-american-radical-pacifism

以下、A.J. マスティさんについて。

○AJ Muste Memorial Institute
http://www.ajmuste.org

○Abraham Johannes Muste (1885年(明治18年)〜1967年(昭和42年))
https://en.wikipedia.org/wiki/A._J._Muste
https://kotobank.jp/word/A.J.+マスティ-1632882